No.88「凄いぞ❗清少納言‼️」

 清少納言の「枕草子」第一段をご存知かと思います🙋。改めて久しぶりに読んでみて、本当に素晴らしい表現だと感銘を受けました❗

 今回読んでみて、3年前、10年前、15年前に読んだ時とは、全く異なった感動を得ることができ、「枕草子」は古くて、なおかつ、どこまでも新しい文学であると実感したのです‼️

 そこで、今回のブログでは、「凄いぞ❗清少納言‼️」と題して、一千年以上前の、一人の女流作家の頭の中に入り込んでみようと思います🙋。

 

 11月9日に、私の尊敬する作家の一人、瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなりました。一つの時代が終わりを告げたような気持ちです。

 私は彼女と故郷が同じ徳島県で、瀬戸内晴美の頃からの小説を10作は読みました。出家されてからの作品も読みました。波乱万丈の彼女の人生に、若い頃からとても興味があったからです。

 「夏の終わり」「花芯」「秘花」「女徳」「美は乱調にあり」「かの子繚乱」「比叡」などは愛読書です。

 特に「夏の終わり」は、何年か間をおいて読みたくなるらしく、同じ文庫本が3冊、私の本棚に並んでいます(笑)📕。

 彼女は、女性だというだけで、社会からも文学界からも敬遠され、干されそうになったことがあったと聞いています。

 そのあまりにセンセーショナルな生きざまと作品ゆえでしょうが、ならば芥川龍之介はどうなんだ、太宰治はどうなんだ・・と思ってしまいます💦。

 彼女も過去には、女性には生きにくい?社会と闘い、それ故の使命感を持ってペンを握った人の一人ではなかったかと思うのです・・・。

 近々、マスコミが瀬戸内寂聴特集を組んでドキュメンタリーを制作したり、彼女が原作の映画もTVで放映されるかも入れません。満島ひかり主演の「夏の終わり」は、是非観てみたいと思っています。

 

 話をもとに戻します。(今回はどうしても瀬戸内寂聴のことを述べておきたかったのです。)

 清少納言は、仕えていた中宮定子が、宮中での権力闘争に敗北し、同時に失脚してからは、行方もお墓もわかっていないと言われています。(諸説あります)

 一時代を駆け抜けた、女流エッセイスト「清少納言」。彼女は何を考え、何を思い、何を表現したのか。

どうして一千年も古典文学の代表として生き続けることができたのか。

 私なりに、その理由と思われる(あくまでも独断ですが)「凄いぞ❗清少納言‼️」を述べてみたいと思います😊。

 

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 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際 少し明かりて 紫だちたる雲の 細くたなびきたる。

 

 まず、「凄いぞ❗清少納言‼️」その1(春)です!それは、「四季の良さを時刻で表現する」です😆🎵

 「春」と言えば「桜」でしょう!・・しかしそれは凡人ゆえ。清少納言はそんなことは言いません。もちろん「夏」は、海でもスイカ🍉でもありません。「秋」だって、絶対に紅葉ではないわけです(笑)😄。

 彼女は「春」は『あけぼの』がいいと言います!本気(まじ)あけぼの感です(笑)😄。つまり、四季のいいところを「時刻」で表現する・・その感性が他にはありません。

 桜は春にしかないけれど、時間は一年中存在しているからです。だからこそ、誰もがみな選ぶような時間はあえて避けたいわけです。

 私のように凡人は、ぽかぽかして暖かい、春の昼下がり・・などと言ってしまうわけです。

 更に、古典の世界の春は1、2、3月。このあけぼのは、今年のあけぼの。新年の日の出ととれないことはないのです。

 がぜん、春のあけぼのに、新しい意味が見えてくるではありませんか(笑)😁。

 

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 夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多くとびちがひたる。また、ただ一つ二つなど ほのかにうちひかりていくもをかし。雨など降るもをかし。

 

 続いて、「凄いぞ❗清少納言‼️」その2(夏)からです!それは、「逆転して、全て否定は、全て肯定❗」です。

 まず、「月夜」がいいと言って、それを反転させて「闇夜」もいいと言う。なぜなら暗くて蛍がキレイに見えるから。

 蛍は、多く飛び交うのがいいと言ったはしから、1匹2匹が、ぽあんぽあんと光るのもまたいいと言います。

 更に、月も出ない、蛍も出なくても、雨の夜もいい・・とくる訳です!

 まるでオセロゲームのようです。私はこのゲームが苦手で、途中まで勝っていても、最後に一度に裏返されて、あっという間に負けてしまいます(笑)💦。

 あれよあれよという間に、クルクルと裏返されていくあの感じ(笑)💦。その潔さと似たような爽快感を感じてしまいます😃。

 でも決して前に言ったものを否定しているわけではありません。結局は、全ていいと言っているのです!全て否定は、裏返せば、全て肯定❗このオリジナリティー清少納言ならではかも。

 更に、「雨など降るもをかし」は、若干のオチ的でもあります。雨のしっとりした感じが、オチにぴったりです。4、5、6月が昔の夏なので、梅雨の静かな雨かもしれません。

 このストンと落とす感じ、小気味いいこの感じが、秋そして冬へと、更に落差を増していくのです‼️(興奮!)

 

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 秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いとちかうなりたるに 烏の寝所へ行くとて 三つ四つ、二つ三つなど 飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが いと小さくみゆるはいとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など はたいふべきにあらず。

 

 更に、「凄いぞ❗清少納言‼️」その3(秋)からに移ります!それは、「次第に盛り上がり、ラストでオチ」です!

 まず、あまり上等とは言えない「烏」を出し、そのバラバラな飛び方を『あはれなり』と持ち上げた上で、次に本命の「雁」登場❗

 その整然とした「連ねた」V字ラインの飛び方を、よくある『をかし』で表現します。

 全体がクレシェンド🎶になっています❗「烏」でも素敵なのだから、いわんや「雁」をや!です。

 あえて、他の人々が持ち上げる「雁」に『あはれなり』を使わず、忌み嫌われる「烏」の方に使う・・彼女ならではかも(笑)。

 烏の声が表す一日の終わりにしんみりし、渡り鳥の行く末に、明るい未来を見ているから・・ということも考えられます。

 そして、オチ。今度ははっきりと時間の経過があります。辺りが暗くなって、視覚が使えなくなると、敏感になったのは聴覚でした!

 風の音と虫の音(ね)が、スッキリしたオチとなって、文章に深みをもたらします。(どこから目線?) 決して長文ではないのに、どうしてこんなにドラマチックなんでしよう🎶。

 

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 冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして 炭持て渡るも いとつきづきし。

 昼になりて、ゆるくぬるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりて わろし。

 

 最後に、「凄いぞ❗清少納言‼️」その4(冬)からで締めくくりです!最後の冬は、言わば「全部乗せ」「all    on」です❗

 まず、「凄いぞ❗清少納言‼️」その1、誰もがあまりよしとしないであろう「冬の早朝」を挙げます。

 更に、「凄いぞ❗清少納言‼️」その2、逆転して全て否定が全て肯定を使います!「雪」があれば言うまでもなく良い。「雪」がなくても「霜」が白ければ良い。

 そして、「霜」がなくても「寒き」朝なら良し!反転させて全て肯定してますよね!

 更に今度は、「雪」から「霜」、「寒き」とデクレッシェンド🎶になっています!秋の反対です😃。次第にレベルが下がってきます。

 ただし、そこに登場するのが「人間の動き」なのです❗初めてです。人の動作を出したのは。それもたぶん足音を聞いているだけです。演出が憎いですね(笑)😉。

 その身分の低い人が、炭を運ぶ足音で、彼女は目覚めたのかもしれません。自分は、まだぬくぬくと布団の中に居ればいいから、気が楽ですよね(笑)。

 

 そして、ラスト。初めてオチで本当に落とします。「わろし」つまり、良くないと思うことを挙げるのです。最後で本当に落とす訳です。

 寒ければ寒いほど好きな彼女にとって、ぬるんでくる空気や、本来深い赤であるはずの炭が、白っぽくなって剥がれていったり、崩れて平面になったりするのは許せない❗私の美意識に相反する❗・・という感じでしょうか💥。

 ラストに至って、「私ってこういう人なの!」と自己主張しているように見えます。自己顕示欲の強そうな彼女ならではでしょうか・・。

 

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   こんなに有名で、一千年以上たっても中学校の国語で無理やり?!勉強させられている古典作品は、そうたくさんはありません。

 私が文學界新人作家コンクールに出品して、見事落選した(笑)小説「刹那~襟子」が、もし世に出たとしても、一千年は持つはずもなく(きっと2、3年で消えるでしょう)、一千年残る文学というのは、本当に奇跡です❗稀有なミラクルです❗

 ましてや当時、こんなに有名なのに、名前すらフルネームでは残っていません。清少納言の「少納言」は秘書的な仕事の名前であったり位であったりします。

 もっと上位の位は「中納言」や「大納言」です。

 「清」は言わば名字「清原」の一文字です。つまりフルネームが残っているわけではありません。女性の地位は、清少納言ほどの人でも男性より低く見られていたということでしょうか。

 かの有名な「源氏物語」の作者の「紫式部」などは、名字の一文字も残っていません。登場人物の「紫の上」の物語の作者・・という呼ばれ方です。

 他にも「更級日記」の作者は、「菅原孝標の娘」、「蜻蛉日記」の作者は「藤原道綱の母」と呼ばれています。一族の中で最も位の高かった男性中心の名前である訳です。

 どこどこのおばさん・・、誰々のお母さん的な呼び名ということでしょうか💦。一千年以上平安の二大女流文学と尊重されている「枕草子」や「源氏物語」の作者でさえこの状態です。

 そういう時代に、キャリアウーマンのトップに君臨していた清少納言が、自己アピールに執着し、自己顕示欲が強くなるのも当然のことかもしれません。

 また、自分の存在意義にだけ固執していたわけではなく、当時の世の女性たちの代表としての使命感も感じていたのかもしれないとさえ思います😃。

 だからこそ、いよいよ「枕草子」が、ある男性の偶然のお墨付きで世に出ようとしたとき、彼女が第一段だけ書き直した・・というエピソードまで残っているのです!

 真実かどうか定かではないし、諸説ありますが、彼女ならそれくらいのことはするだろうと思ってしまいます(笑)🙋。

 「かたはらいたきこと」や「うつくしきもの」ではなく、「香炉峰の雪は御簾を掲げて見る」でもなく、「春はあけぼの」を改作した、その彼女の気合いを、私は理解できるような気がします😆。

 誰もが書かないことを、誰もが思いつかないことを、自分以外にはあり得ない感性を、きっと表現したくなるはずです❗

 「枕草子」を読む人は、まず第一段を読むはずです。彼女が第一段にこだわるのはとても理解できます❗世に出る文学者の責任感まで、感じとることが出来るほどです。

 凄いぞ❗清少納言‼️改めてあなたの凄さを感じた秋の一コマでした😆🎵。「秋は・・」私も「現代ものづくし」書いてみようかな(笑)!芹沢マリリンでした🎵