No.83実は私、小説も書いてます❗その18

 コロナの新規感染者数が全国で1日2万人を超える日もあり、重症者数もどんどん増えて、前代未聞の危機的状況になっています。

 その上、医療現場が逼迫し、入院の必要な患者が増大して、宿泊施設や自宅で亡くなる方も増えています。そういうニュースを見るたびに、胸が締め付けられるようです。

 私の家の近所でも、9月12日の緊急事態宣言解除?まで休業する商店が増えてきています。廃業した商店もあります。

 そういう状況でありながら、相変わらず街には人が溢れていて、コロナに関するニュースが少なくなり、「慣れ」の様相が見られるように思います。

 若者への感染が増大し、重症者も増えて、感染者数も今までの最多を、多くの自治体で数えているのに、私はこの「慣れ」は、本当に無視できない状況だと危機を感じています💦。

 

 こんな状況なのに、なぜまだ大規模医療施設が設定されないのでしょう⁉️中国のように、10日間で千人規模の大病院を建造せよと言っているわけではありません。

 今ある体育館でも、ワクチン接種に使っている大型施設でもいいから、パーティションで囲ってベッドを入れて、医療従事者を配置して、せめて自宅療養せずに医療の手が届く状態にできないものでしょうか。

 ファストドクターに訪問してもらうより効率的で、家族への感染も避けることができるのに・・と私は思います。

 パラリンピックは素晴らしい取り組みですが、そのために医師や看護師が100人以上動員されます。それだけの医療従事者が医療現場にいてくれたら、どれだけの人の命を助けることができるだろうと私は考えてしまいます😥。

 今はどんなに気を付けていても、誰でも感染する可能性があるような状況です。離れ小島や山奥の一軒家にこもっていなければ、誰にでも危険性があります。

 若い人は重症化しないと言われていましたが、そうではない状況になってきました。たとえ軽症で済んでも、後遺症に苦しんでいる若い人も大勢います。

 感染しないことが大切です。でもそれは大変困難なことです。他人事ではありません。自分や自分の家族が感染したときのことを真剣に考えなければならないところまで、状況は悪化していると私は感じています。

 地方自治体は、一人一人の国民に近いためか、首長たちから切迫したメッセージが流れています。ところが、国や政府の動きが遅いように見えてなりません。この一年半ずっとそのように私は感じています。

 今日の「報道特集」では、『自宅療養者と命の選別』

が放映されていました。自宅訪問されているドクターは、この状況を「自宅療養」という名の「放置」だとおっしゃっていました。

 危険な医療現場で、本当に献身的に働いておられる医療従事者の方々の姿には、頭が下がります。涙なしに見ることができません。

 

 「慣れ」は、人間に与えられた、命を守る適応能力です。しかし、ことコロナに関しては「慣れ」は危機管理能力の減退につながります。

 今最悪の状況だということをしっかり自覚して、「慣れ」てしまうことをなんとしても避けなければ、救える命も救えなくなるのではないかと私は思います。

 

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 それでは今回も、私の小説「刹那~襟子」の続きをお楽しみください。

 そろそろラストが近づいてきました。ブログ19回に続けてアップしてきました。さて、どんなラストになるでしょうか・・。

 

 「刹那~襟子」 第四章 濃厚接触

 バスは、慎重に、しかし急激に速度を落とし、バス停ではない路肩に急停車した。バスには緊急時の通報マニュアルがあり、運転手はそのボタンを押したと見えて、パトカーのサイレンはもうすぐ近くに聞こえる。

 間もなく警察官が数名バスに乗り込み、運転手が数名バスに乗り込み、運転手から簡単に事情を聞くと、床に寝転んだままの若者を起こして連行していった。

 若者はうなだれ、抵抗することもなく静かに従った。二人の会社員も別の警察官に促されて一度はパトカーに乗ったが、事情を聞かれてすぐに降ろされた。

 中年女性は、大事を取って、あとから来た救急車に乗せられ病院に向かった。

 襟子は思った。あの泣いていた若者にも、何か事情があったのだ。単なるマスクをするしないのこだわりではなく、こういう時節にマスクのことすら忘れさせるような、何かもっと大きなものが、彼の心を占めていたのではないだろうか。

 そしてそれは、きっとあの若者にとっては、人生を左右するかもしれない大きな存在だったのだ。そうでなければ、彼のあの涙の理由にならない。

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 襟子は切ない思いでいっぱいになった。コロナ禍で誰もが精神的に大なり小なりストレスを感じている。それゆえに、本当の親切心で動いたあの中年女性のような行為も、素直に受け取れないこともある。 

 また、自分さえ良ければというエゴイズムに支配され、普段ならもっと冷静に想像力を働かせて判断できるようなことを、突発的に考えもなくやってしまうこともあるのではないだろうか。

 例えば、感染者を責めてしまうようなことを。えてしてそういうとき、本人は良心や正義感でやっていると信じているので始末が悪い。

 この何ヵ月かのコロナ禍は、人々の生活レベルの差を浮き彫りにしてきた。富める者とそうでない者の差を、より大きくしてきたとも言える。

 襟子の会社を含め、多くの職場はコロナ禍のために大打撃を受け、倒産、失業は莫大な数に上った。その影響は、様々な形で人々の生活に影を落としている。

 また襟子は、被害者にも加害者にもなりうるという、この新型コロナウイルスの理不尽さに暗澹たる思いになるのだ。

 どんなに気を付けていても、いつ自分が感染するかも知れず、いやもう感染しているが無症状で、知らず知らずのうちに、感染を広げてしまっているかも知らない。

 ワクチンがまだ実用化されておらず、PCR検査がまだ一般人にとって『誰でもいつでも何回でも』受けられる状態ではない以上、ある意味自分自身に対してさえ疑心暗鬼のまま、日々の生活を営まねばならないのが実状なのだ。🌠(この原稿を書いたのは昨年の9月なので状況は、現在と異なります)

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 そのバスに乗車していた全員が事情聴取を受けたあと、もしもその内の誰かがコロナに感染していた場合、図らずも濃厚接触者となったかもしれない危惧のため、乗客の要望もあり全員がPCR検査を受けた。

 結果は後日知らされたが、襟子は陰性だった。他の乗客たちの結果は当然知らされず、咳をしていたあの若者も、陽性だったかどうかはわからないままである。

 たまたまその時間のその一台のバスに偶然乗り合わせただけである。いつどこで、どんなことに出くわすか、いったい何が起こるのか、誰にも予想することができない。

 襟子が、もしもタクシーを使っていたら、その次のバスに乗っていたら、こんな事件には遭わなかったのである。

 そのバスを一瞬で乗り損ねることだってあり得るし、運良く?一瞬早く乗り込んでしまうのとだってあり得るのだ。

 一瞬に翻弄される人間、そういういくつかの人生が、偶然ある一点で交差した時、抗うのことのできない弱々しい人間たち。交錯する刹那の集合体の中で、人はそれでも生き抜いていくことを情け容赦なく要求される。

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 心も体もくたくたになって、襟子はようやく家に帰りついた。とにかくシャワーを浴びて体と心を休めようと思った襟子は、バスタブにぬるめの湯を張って体を沈めようとした。

 その時だった!今まで感じたことのない胸の痛みが襟子を襲った。肺や心臓にも持病はなく、胸の痛みなど、この時まで感じたことがなかった。💥💥💥

 まるで胸を鋭利なナイフでえぐられたような強烈な痛みだ。襟子はそのまま湯船の中に落ち込むしかなかった。胸を押さえ、うずくまって痛みを逃そうとしたが。徒労に終わり、次に襲ってきた症状に、襟子は一瞬にして平静を失った。

(息が、息ができない・・)

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 今回はここまでにしたいと思います。もうすぐラストなのが淋しい感じです(笑)💧💧💧💧💧

 次はどんなことを書こうか、最近ローラー読みしている角田光代さんのエッセイを読んで、考えてみようと思います🙋。芹沢マリリンでした🎵